趙州従しん

『碧巌録』百則の中に、趙州に開する公案が、十二則もあることから、雪竇禅師が趙州を敬慕して居られたと思われる。また太祖の『伝燈録』でも、特に多くの紙面が割かれていることからも、古今屈指の高僧禅傑といえるであろう。趙州が行脚に出るときの、言葉が伝えられている。「たとい七歳の童子なりといえども、われに勝る者ならば、就いて教へを乞おう。われに劣る者ならば、百歳の老翁なりとも、われ、かれのために教へを説こう」
古來、趙州は、六十歳の時初めて発心得度、諸方行脚二十年の後、八十歳に至って観音院の住持となり、百二十歳まで説法教化した、と伝えられている。このことは、諸方での問答の記録からもよく知られることで、八十歳初めて住持となったことも事実と思われるが、六十歳発心出家ということは、後世の創作ではないかと思われる。
趙州の師匠は南泉普願禅師で百丈、西堂と合わせて馬祖門下の三大師と称せられた高僧である。南泉が南泉山(安徽省)に住したのが、唐の徳宗帝、貞元十一年(七九五)で、この時、趙州は十八歳、南泉は住庵三十年であった。晩年、大夫陸亘の懇請により初めて山を下りたと言われる。この間、南泉を訪ね、その法嗣となったのです。南泉の遷化は八三四年で、この時趙州は五十七歳であった。赴州が先師の喪に服すること三年、改めて二度目の行脚に出て、諸方の善知識を巡訪していたとすると、六十歳にして諸方行脚ということが事実と解される。
趙州は、山東省曹州の人で、州の瑞像院で得度授戒し沙弥となった。師匠につれられて南泉山に行ったのは、何歳の時かは解らないが十八歳以上であったことは確かである。その時、南泉禅師は寝そべって趙州と相見したとされる。
南泉『お前は、どこから来たのか』
趨州は正直に、
『私は瑞像院から参りました』
南泉『なに、瑞像じゃと、どんな瑞像を見てきたか』
趙州『別に瑞像は見ませんが、只だ臥如來を見ました』
南泉は起きあがって、あらためて問う、
『お前に師匠はあるのか、それとも師なしの坊主か』
『はい、師匠はございます』
『誰がお前の師匠じゃ』
趙州は南泉の前に進み出て揖する礼をとり、
『春とはいえ、まだまだ寒うございます、ご尊体ご自愛下さい』南泉を師匠にしてしまった。この働きをよしとした南泉は、入室参禅を許したという。
趙州が、『如何なるか是れ道』と問うたに対し、南泉は『平常心是れ道』と答へ、『その道に向うことは如何なる様子か』と問われ
『道に向はんとすれば却って背く』
南泉『問おうとしなければ、どうなるか』
『問おうとしなければ、道を知るに由なし』と、こんな調子の問答があって、ついに『真実の大道は、知にも不知に属せず、太虚の廓然蕩々たる如く、是非の一言一句もつけられるものではない』という悟境に得入したのである
諸国歴遊の時、黄檗希運を訪ねたとき、黄檗は、趙州の入って來るのを見ると、急いで室の戸をピツシヤリ閉めてしまった。すると趙州は本堂へ走ってゆき、『火事だ火事だ』と怒鳴った。黄檗が飛んで来て、趙州の胸ぐらをとらえ、『さアー句言へ』と云ふと、『わっはっはは、賊過後の張弓・・賊が逃げてから弓な張るやうなものだ』とケロリとしていた。黄檗は趙州を突き放し、呵々大笑した。達人と達人との出会いである。
雲居山に道膺禅師(曹洞宗の祖洞山の法嗣)を訪ねたときも、『よい年をして、いつまでうろうろとうろつき回っているのだ』と問われ
『どこぞに好い住地がありますかな』
というと、雲居は大に乗り気になって、『幸いに、この山の近くに一つ空き寺がある、早速お入りなさい』と、親切ぶっていうと、趙州は、うれしそうな顔をして、
『それはまことに結構なこと、和尚早速お入りになるとよい』と言ったので、雲居も、言葉に詰まったといわれる。この後、趙州を見送った門を「趙州関」と名付けられ、今も残っている。
この外、道吾、臨済、投子、雪峰、保寿など、当時の善知識と問答商量したことが記録されている。
越州の『無字』『喫茶去』『柏樹子』や、南泉との間で交わされた「南泉斬猫」の問答は有名である。